会津三十三観音第19番札所
石塚山蓮台寺(石塚観音)
●沿革
石塚観音こと石塚山蓮台寺は、康暦(1379~1381)の頃、蘆名直盛により創建されました。江戸時代のはじめ、徳川家康の三女にして蒲生忠郷の母である正清院振姫の尊崇を受け、五間四面の本堂に、鐘楼や仁王門をそなえるまでに隆盛しました。
ご本尊は、幾度かの変遷をへて、現在は千手観音さまをおまつりしています。その千手観音の胎内には、かつて佐原義連が大蛇を退治した際、兜の中にいただいた守り本尊である一寸八分の聖観音像をおさめています。
戊辰戦争の際は、城下町から西へ避難する人々が門前を通り、多くの悲劇の舞台となりました。中でも会津藩士・河原善左衛門の妻・安子が、老母・菊子と娘・国子を、敵兵の手にかかるのを恐れて境内で介錯した逸話は有名です。
現在のお堂は、境内地の南側に西若松駅をまたぐオーバーパス(県道跨線橋)がかかったため、位置をずらして平成11年(1999)に新たに建立されたものです。
●会津三十三観音第19番札所
石塚山蓮台寺は、会津三十三観音の第19番札所です。
〈第19番ご詠歌 石塚〉
後の世を 願う心は 軽くとも
仏の誓い 重き石塚
会津の三十三観音巡りは、西国三十三観音にならい、寛永20年(1643)、会津に来封した藩祖保科公によって制定されました。
会津三十三観音は、特に農村部の女性に篤く信仰され、またその巡礼は娯楽も兼ねたものであったと伝えます。33ヶ所は、おおむね会津盆地の内側に分布しております。この分布にも深い意味があり、まず会津盆地の内側を蓮の華のうてなと観じ、北会津郡西部に3ヶ寺、大沼郡に10ヶ寺、北会津郡北部に6ヶ寺、耶麻郡に9ヶ寺、河沼郡に5ヶ寺配置され、合計33ヶ寺になります。それぞれの地域に配当された札所の数には、仏教の教えが込められており、3には三業、10には十善戒、6には六波羅蜜、9には九品の浄土、5には五智の如来という、ありがたい意義がそれぞれ隠されているのです。つまり、三業を清め、十善戒を保ち、六波羅蜜を行ずれば浄土に往生して、如来様にお会いできるという信仰です。
詳しくは会津三十三観音のHPをご覧ください。 なお蓮台寺の御朱印は、祭礼期間中(1/1~3・1/16・7/16のみ)は蓮台寺で御朱印が受けられます。それ以外の日は、お手数ですが、蓮台寺にお参りになったあと、本寺・金剛寺までおいで下さい。金剛寺において御朱印を授与します。
【石塚観音の地図】
境内の未舗装部分に20台以上は駐車できます。ただし出入り口が小さいので、マイクロバスが限度で、それ以上は難しいでしょう。また夏のお日市(7/16)だけは、境内に屋台が出店しているので、駐車できません。
【御朱印授与所である、本寺・金剛寺の地図】
石塚観音から車で10分ほどです。
●『新編会津風土記』(文化6年編)に掲載されている蓮台寺の紹介文
「石塚六軒丁 蓮台寺
観音堂(境内東西三十一間、南北五十五間。免除地)此丁の西に続く。縁起を按するに康暦年中芦名直盛の草創なり。其後蒲生忠郷の母堂深く此観音を信し再ひ堂宇を造立し、荘厳を極め常に参詣して渇仰他に異なりしとそ。今に至るまて石塚観音と称し遠近尊崇すること大方ならす。慶長十八年此堂を以金剛寺の住僧宥伝に附与して別当たらしむ。六月十六日十七日会式あり。会津三十三所順礼の一なり。
二王門 三間に一間。左右に力士の木像を安す。
制札 二王門を入て右にあり。
本堂 五間四面。東向。「トチ葺」にて四方に庇縁匂欄を設く。皆黒漆の堅地にて種々の彫鏤彩飾あれとも、外面は風雨の為に剥て完からす。本尊十一面観音。三浦義連随身の像と云。長一寸八分。又千手観音の像あり。長三尺一寸。忠郷の母堂納る所なり。鰐口一口を懸く。奥州会津若松石塚観音堂(種字キリク)奉掛御宝前鰐口大領主源氏女御寄進御願如意満足 慶長十九甲辰年八月廿八日 大工天命野口外記 長谷川勝右衛門と彫付あり。
鐘楼 本堂の東南にあり。二間半四面。鐘径二尺五寸余。寛延三庚午年十一月十七日本山金剛寺二十四世現住法印宥道 石塚山院代法師宥英 冶工星野宗七喜起と彫付あり。銘あれとも載す。 別当蓮台寺 本堂の北にあり。真言宗石塚山と号す。開基詳ならす。慶長年中大和町金剛寺の末山となる(道場小路観音寺の縁起に因に、当寺もとは彼寺の末山なりしか、慶長三年上杉景勝奪て他の僧をして別当たらしむ。観音寺十二世信悦深く憤を含み、蒲生家再封の後具に状を訴へしに因り再彼寺に隷せり。時の住僧憤を発し火を放て殿宇を焼、我身も共に其中にありて焦死せりと云。後改て金剛寺に属す)。」