金剛寺

会津真言四箇寺 常法談林 
宝珠山華蔵院金剛寺

福島県会津若松市七日町8-48

金剛寺外観
金剛寺外観

目次:
●金剛寺の沿革
●本堂
●三昧堂
●墓地と永代供養墓
●主な寺宝紹介
●アクセス
●駐車場の案内
●『新編会津風土記』の金剛寺

●金剛寺の沿革
 金剛寺は、山号を「宝珠山(ほうじゅさん)」、院号を「華蔵院(けぞういん)」といい、総じて「宝珠山華蔵院金剛寺」と称します。大治5年(1130)、長宥法印により、蘆名氏の山城がありました小田山のふもとに開創されました。このころはまだ平安時代の末期、「院政期」と呼ばれる世でした。現在、曹洞宗の恵倫寺が建つ場所が、金剛寺の跡地と伝えられています。恵倫寺の山号は「金剛山」といいますが、金剛寺跡地であるという理由でそのようになっていると伝えます。この小田山山麓時代の金剛寺の実態については、詳しい記録が残っておらず、よくわかっておりません。
 その後、応永18年(1411)、領主の蘆名盛久公が、時の金剛寺住職・賢日法印に帰依して、聞法の便のため、寺地を小田山の麓から米代(のちの日新館の地)に移しました。以来、蘆名家の祈願寺院となりました。中世、各地の領主は、祈願寺院(願いごとを祈祷する寺)と菩提寺院(葬儀や法事を担当する寺)の両方を建て、目的により使い分けるのが一般的で、蘆名氏も同様だったのです。領主の尊崇を受けた金剛寺の寺運は興隆し、会津地方の代表的な真言宗寺院となりました。戦国時代の16世紀には、京都・醍醐寺から何度も高僧がやってきて、法を伝授する重要な儀式(伝法灌頂)が行われました。

戦国時代の文禄元年(1592)、蒲生氏郷が会津の領主となり、若松城下の町割を改めました。この町割で、当時郭内にあった寺院はほぼ全て郭外に移転されました(興徳寺を除く)。このとき金剛寺も、米代の地から現在地(旧・下大和町)に移転しました。
 江戸時代、全国の真言宗末寺の宗内行政を4つの寺で輪番担当する「四ヶ寺」が江戸に置かれました。松平氏の治める会津藩でもそれにならい、会津真言四ヶ寺を置きました。会津真言四ヶ寺とは、博労町の自在院、大町の弥勒寺と観音寺、そして金剛寺です。この四ヶ寺が輪番で、会津藩領内の真言宗寺院行政を担当しました。加えて金剛寺は、「常法談林」という、地方の代表的学問所の称号を与えられ、多くの学僧を輩出しました。金剛寺の住職に就任するハードルも高く、本山在山20年、つまり奈良県の長谷寺で20回、特定の論義(真言宗の教義について討論する法要)に参加した者、と条件付けられていました。末寺・孫末寺は、最も多い時であわせて25ヶ寺に達し、東は安積郡(現・郡山市湖南町)、南は栃木県塩谷郡藤原町中三依、西は新潟県東蒲原郡津川町(いずれも旧・会津藩領)まで及んだと伝えます。

 幕末の慶応3年(1867)、若松の下五ノ町より出火し、残念ながら金剛寺の本堂・鐘楼も焼失してしまいました。33世尊応法印の代のことです。ようやく仮本堂ができたのも束の間、翌明治元年(1868)、戊辰の兵火のため、再び灰燼に帰してしまいました。もっともそれ以前の法具や古文書が一部現存していますので、恐らく大切なものは疎開させていたのでしょう。若松市内に古いお堂が残っていないのは、この時城下の寺院がほとんど焼失したからです。

 戊辰の兵火以来50年以上、ずっと仮本堂で読経していたと伝え聞きます。ようやく大正10年(1921)、35世元瑩僧正の代に、本末檀信徒一同の協力により、現在の本堂が完成しました。戦後、世の中が落ち着きを取り戻すと、36世元興僧正の代には、書院・納骨堂・山門なども整備されました。  以上が金剛寺の沿革です。現在は、37世住職・修譽が寺門を守っています。

●本堂
大正10年(1921)の再建以来、何度かの修繕や瓦の交換をへて、ようやく百年を経過しました。中央・須弥壇上のご本尊は大日如来さま(胎蔵)です。両脇に弘法大師・興教大師をそれぞれおまつりしています。南側の脇の間には不動明王さまをおまつりしています。

本堂

令和元年からは、イスを常時配備しています。最大で40脚ほどの準備があります。 本堂のうしろ側(西側)には、昭和60年(1985)に増築した納骨堂があります。この納骨堂には、歴代住職の位牌と共に、増築当時にご寄付いただいた檀信徒の位牌がずらりと並んでいます。

納骨堂

三昧堂内観

●三昧堂
金剛寺の第二本堂である三昧堂(さんまいどう)は、平成24年(2012)、葬儀用のお堂として、旧庫裏の地に新築されました。葬儀のかたちが家族葬へと移行していく傾向を受け、シンプルかつ宗教的な荘厳さを兼ね備えたお堂が必要と考えた次第です。簡易宿泊も可能で、故人が病院からまっすぐこの三昧堂に入ることも珍しくありません。枕経~お通夜~葬儀まで、すべて一ヶ所で済むのも魅力です。「三昧堂の建立にご寄付いただいた檀信徒のご葬儀では、初回使用料をいただかない」という当初からの方針も継続中です。現在は金剛寺檀家さんの利用が中心ですが、ほかの真言宗の檀家さん、または金剛寺檀家のご親戚なども対応可能です。 鎌倉時代、全国の寺院境内には、看病や看取り専用のお堂である「三昧堂」が存在しました。病院が満足になかった時代ですので、寺院内の僧侶のみならず、寺院外の庶民もその三昧堂で治療を受けたり、最期を迎えたりしたそうです。金剛寺の三昧堂も、そのような往古の三昧堂にならい、落ち着いて故人を送り出せるようにという願いを込めて、三昧堂と命名いたしました。

●墓地・永代供養墓
 金剛寺の境内墓地は、本堂の西側と南側に広がっています。現在の整理された区画は、江戸時代以来の旧区画を、昭和12年(1937)に大規模区画整理したものです。ただし、近年の「墓じまい」などの影響もあり、若干、空きも出てきています。また平成25年(2013)より、南西地区に新区画を増設し、分譲を始めています。こちらは徐々に空き地も少なくなってきています。 これら境内墓地は、旧区画の間口がおおよそ210cm、新区画は180cmとなっています。そのぶん費用も差があります。詳しくはお問い合わせください。

永代供養墓

 新区画を増設した同じ年の平成25年(2013)、本堂前に、永代供養墓が竣工しました。石造の中型(一基30cmほど)五輪塔を、ピラミッド状に配列させたお墓です。跡継ぎがいない方や、墓じまいを希望される方の声を受け、建立しました。五輪塔は原則お一人一基で、ご遺骨の一部を中に納め、お名前を刻んだ銘鈑を取り付けて立て置きます(残りのご遺骨は永代供養墓の地下に安置いたします)。現在は、東西南北の4面のうち北側が埋まり、東側に少しずつ五輪塔が増えつつあります。お墓の行く末が心配な方は、ご相談ください。ただし、何ごとお一人で全てを決めず、家族間である程度相談してからのほうがよいでしょう。 世間には、自治体が作った名ばかりの合祀施設や、派手に広告している民間の納骨施設(50年後に存在しているかあやしい)があり、それらは「永代」の考え方もまちまちです。合祀や納骨は、子孫たちが「しっかり供養されている」と安心できるかどうかが肝心です。合祀や納骨で安易な選択をすると、後悔しても取り返しがつきません。その点、モチはモチ屋ではありませんが、やはりお寺の永代供養墓がもっとも確実ではないでしょうか。

●主な寺宝紹介

金剛寺は、長い歴史の中で多くの寺宝を失いました。しかし代々の努力で残されたものもあります。そのうちいくつかを紹介したいと思います。

・国指定重要文化財「金銅双鳥双龍文磬」
正応6年(1293)に「伴貞吉」により作られた「磬(ケイ)」。現在は寄託中で一般公開していません。磬とは、元々古代から中国で用いられていた打楽器です。「磬」の漢字が示すように、もとは石や玉で作られ、ひらがなの「ヘ」の字の形に素文が普通でした。いつの頃からか金属で鋳造するようになり、少なくとも日本の寺院では8世紀から用いられていたようです。その後も広く普及し、多くの宗派で用いられるようになりました。磬は磬台にさげ、僧の右側に置かれます。読経中、僧があらたまって神仏に申し上げるときに、撞木(しゅもく)で叩きます。すると「キン」とよい音が響きます。

・会津若松市指定文化財 雪村筆「瀟相八景図屏風」
有名な画僧・雪村(1492?~1589)による図屏風です。会津でも活動し、多くの名作を残しています。この図屏風が金剛寺に残された経緯ははっきりしませんが、恐らく当時の住職が蘆名家の関連人物だったことに由来するのではないかと思います。

・両部曼荼羅 190cm×250cm×2(金胎)
マンダラは、真言宗の重要儀式「灌頂」において、金剛界曼荼羅と胎蔵曼荼羅の一対で用いられます。この一対は、恐らく天文年間、醍醐寺僧正による灌頂の際に用いられたのでしょう。ただし破損箇所が多く、要注意です。

・佐竹永海筆「九相図」
会津出身の画家、佐竹永海(1803~1874)が文政10年(1827)に描いた九相図です。九相図とは、野外にうち捨てられた死体が朽ちていく過程を九段階に分けて書いた仏教絵画です。小野小町など美女がモデルであることが多く、無常をさとるために用いられます。

・聖憲和尚画像
聖憲(1307~1392)は、新義真言宗の教学をまとめ上げたと評される紀伊根来寺の学僧です。本画像は、聖憲の功績を江戸時代になって讃えたもので、長谷寺14世英岳の讃、護持院隆光の開眼とあります。

・法住筆「佛心如満月」の書
法住(1723~1800)は長谷寺32世となった学僧です。奈良随一の学問寺であった長谷寺の全盛期を支えたと評されます。「佛心如満月」の訓読は「仏の心は満月の如し」。『菩提心論』からの一文で「仏さまのみ心は、欠けるところがない」という意味です。

・慈雲尊者「如実知自心」の書
慈雲尊者(1718~1805))は、かの山岡鉄舟に「日本の小釈迦」と評された、江戸時代を代表する真言宗僧です。大坂・京都を拠点に活動し、戒律復興運動など、その影響は現在にまで及びます。「如実知自心」の訓読は「実の如く自心を知る」。『大日経』からの一文で、自分の本来の心のあり方が(煩悩を克服していくことで)実は仏の心に他ならない、という意味です。真言宗にとって非常に大切な一文です。

・金剛寺文書 金剛寺に伝来した、合計1028点の文書です。本末関係、寺社奉行とやりとりされた文書は少なく、聖教や宗門の教理書が多くなっています。近世~明治のものがほとんどですが、中世のものも一部含まれます。また幕末の画僧、無言蔵大願関連の写本も確認されます。目録は、財団法人福島県文化センター編『歴史資料館収蔵資料目録』第21集(県内諸家寄託文書17、1992)に収録されています。現在は金剛寺に保管されています。この目録に漏れた聖教も少なからずありますが、同じく金剛寺に保管されています。

●アクセス

●駐車場
 金剛寺の境内地には、戦後、たくさんの住宅がありました。それらの住宅も徐々に郊外へ引っ越され、現在は広い駐車場になっています。30台弱は駐車可能と考えています。

●『新編会津風土記』(文化6年編)に掲載されている金剛寺の紹介文

「大和町 金剛寺

金剛寺(境内東西四十五間。南北五十五間。免除地)此町の西頬にあり。醍醐松橋無量寿院の末寺真言宗なり。宝珠山華蔵院と号す。昔は郭内米代(其地詳ならす)にあり。城郭修理の時この地に移る。開基の僧を長宥と云(草創の年月詳ならす)。応永十八年葦名盛久より耶麻郡慶徳組山崎村を以て当山の寺領とし、院宇を修造し世世守護の祈願所たらしむ。故に其時の住職賢日をもて中興とす。永正のころ宥鑁と云僧再醍醐寺に登り密宗の奥旨を明らむ。葦名盛高深くこれに帰依し、又慶徳組岩沢村を寄附して寺料とす。天文中本山より僧正俊聡この寺に下向し灌頂を修行せり。天正のころ宥安と云者あり。始は高野山遍昭光院に住せしか、葦名家の宿老富田か一族なるによりこの寺の住職となる。伊達氏の乱を避て小田付組(耶麻郡)岩崎村大用寺に遁る。この時寺産を失ひ什宝も又多く烏有す。蒲生家の時今の地を開けり。本山大僧正堯円下向の時も当寺に寄宿す。今に至て会津真言四箇寺の一なり。安永中災に罹り今は庫裡書院のみにて再建いまた成らす。大日を本尊とす。又鐘一口あり。径二尺一寸。□宝永三丙戌年霜月天赦日当寺第十九世法印秀善欽白と彫付あり。

制札 門外左にあり。 
宝物
貝多羅葉 一枚。小田町浄光寺にある所と完く同し。包紙に奉寄進多羅葉 元和第八十月廿六日 楊津別当法印和尚俊精御房前住屋島後住高雄龍厳上人とあり。
豊臣家神号 一幅 落款に秀頼書之とあり。
青面金剛 一幅
十三仏画像 一幅
不動画像 三幅 空海筆と云
金胎大曼荼羅 二幅 彩画最密なり。裏書に天文四乙未年に洛陽醍醐開山聖宝尊師直筆 土佐刑部大輔光茂をして模写せしむとありしと云。今は見えす。
菅天神画像 一幅
和漢朗詠集 一巻 伏見院宸筆
大般若十六善神画 一幅 土佐光茂筆
観音画像 一幅 牧渓筆
遊魚図 一幅 雪村筆
涅槃像 一幅 唐人筆
鐘馗像 一幅 雪村筆
山水屏風 一双 雪村筆と云伝ふ
弥陀像 一幅 慧鎮筆
妙沢不動像 一幅 自画自賛なり。落款に妙沢老人筆 施審中察侍奉持とあり。賛文如左(略)
和漢朗詠集 一部 尊道親王筆
紺地金泥華厳経 一巻 筆者知す
華厳経 一巻 空海筆
御成敗式目 一巻 鳥飼筆
歌書 一巻 心敬筆
十問最秘抄 一巻 兼載筆
墨画竹 一幅 東坡筆と云 賛あり(略)
源氏物語 一巻 為相筆
薬師像 一幅 空海筆
青面金剛 一幅 筆者知す
古筆 二巻 共に尊円親王筆
菅天神名号 一幅 同上
布袋画 一幅 雪村筆
磬 一枚 銘に阿仏持仏堂磬 大工伴貞吉 正応六年十月日とあり。懸る所の□に奥州会津若松宝蓮院大僧都旭栄造立之 慶長十五年庚戌正月吉日と書す(図略)。案するに当寺に宝蓮院と云号ありしことを伝す、又慶長中の住持に旭栄と云僧なし。宝蓮院旭栄とある、詳ならす。 古文書 四通(略)」