阿弥陀堂(本堂)

八葉寺の本堂は阿弥陀堂です。国重要文化財 日本遺産                     ©田中印刷

 阿弥陀堂は、境内中央に位置し、背後に奥之院、両側に十王堂・空也堂を従えており、茅葺の屋根が特徴です。規模は桁行三間、梁間三間、一重、屋根は入母屋造、妻入となっております。妻入とは建物の正面が屋根の妻側に開いていることを言いますが、屋根の妻部の装飾をみせる手法といえましょう。
 本尊さまは、その名の通り阿弥陀さまです。阿弥陀さまの周囲には、五輪塔がところ狭しと並んでいます。 建立の詳しい年次はわかりませんが、天正17年(1589)の伊達政宗による会津攻めの際、史書には八葉寺も罹災したとあります。ただし阿弥陀堂の柱の一本に天正13年(1585)の落書があることから、伊達の争乱以前からこの阿弥陀堂が存在していたと考えられています。また内部の本尊・阿弥陀三尊さま(秘仏)の入るお厨子は、鎌倉時代にさかのぼるとの説もあります。
 平成12年に火事で半焼しましたが、金剛寺本末檀信徒からの浄財と、国・自治体からの援助を受け、なんとか再建に至りました。

 この阿弥陀堂は、明治37年(1904)、いわゆる旧国宝に指定されました。内務大臣伯爵桂太郎名での指定でした。指定の理由を見てみると、「村上天皇康保元年空也上人創立文禄年中再建スト云フ禪宗風ノ手法ヨリ成リ繪様彫刻能ク當時ノ形式ヲアラハセリ特ニ内部須弥壇ノ繰形及高欄ノ形状及彫刻頗称スヘシ」とあり、会津地方屈指の古建造物であり、特に内部の須彌壇周辺が高く評価されていることがわかります。戦後、あらためて国の重要文化財に指定され、現在に至っています。

 旧国宝であった昭和6年(1931)、ある青年貴族が会津を訪ねられ、八葉寺を参拝した時の記録が残っています。この記録は阿弥陀堂の評として現在にも通じるすぐれたものですので、ここに引用させていただきます。

東伏見邦英伯爵(久邇宮邦英王)「會津地方の古寺を訪ねて」
                   『寳雲』(昭和7年1月25日発行・寳雲社)37頁より

「最後の日には思ひがけない収獲に惠まれた。それは河沼郡堂島村大字廣野字冬木澤權現の阿彌陀堂と、河沼郡日橋村字藤倉の地藏堂である。阿彌陀堂は普通會津高野山と呼ばれ、地藏堂は藤倉の二階堂と云はれて居る。この二つの堂は會津旅行中に見た最も美しい建築物である。わづかに柳津の奥の院で建築物らしいものを見て喜んだ僕の目は、此處に始めて歡喜の色をうかべて見張つた事であらう。

葺き替えから6年目、昭和39年(1964)の阿弥陀堂。伯爵の拝観当時もこのようであったろう。

 阿彌陀堂は廣塲を前に置き、後ろに山を負ふて建てられて居る。方三間の單で、妻部を正面とする茅葺の入母屋造である。其の屋根のすばらしさ。やつと僕の目を喜ばせて呉れた柳津の奥之院も、この阿彌陀堂の前では全く顔色がない。茅葺でよくもこんな屋根が出來たものだと、つくづく感心させられた。重くなりがちの茅葺の屋根を、輕く見せようとして、流れの面にえぐりをつけ、隅軒には相當強い反轉を持たせ、妻の面には流れよりも輕快な曲線を現はさせて居る。又屋根の輕快感をす爲に、軒の出を多くしようとして、茅を鼻から出來るだけ遠くまで出し、その先の切り方も、中央間の柱のあたりから隅柱へと反轉して行くの列の作る美しい曲線の延長と、反りを持つて流れ下つて來る流れの曲線との二つの曲線の交はりによつて、極めて自然に切られて居る。その二つの曲線の交はる角がごく鋭い爲に、茅葺の厚さは、見た目には、その厚さの何分の一かの薄いものとなつて映つて來るのである。かうした茅の葺方に對する優れた技巧を用ひた結果、この阿彌陀堂の屋根は、茅葺そのものの持つ重厚感を脱して、室町特有の輕い、飜る様な屋根、例へば忍辱山圓成寺(奈良縣添上郡大柳生村字忍辱山)の樓門の屋根や、法隆寺南大門の屋根に近いものとなつて居ると云ふことが出來るのである。

 妻飾の懸魚の彫刻は一寸面白いものである。懸魚を中心に、菊の花と葉がその周圍にあしらつてある。その彫刻は相當手がこんだものであるのに、一寸見たところ、あつさりした氣のきいたものである。桃山らしい感じのするもので、蕪懸魚とか云ふのだらうと思ふ。

 かうした屋根の重量は、二重繁、三ッ斗にて受けられ、臺輪を經て、粽柱へと流れて行くのである。そして腰には高い、我々の背の高さ位にある縁を廻らし、内法長押には金具の釘隱が打たれて居る。三ッ斗の上の實肘木は雲形肘木に似た形で面白いものだと思ふ。中備には柱上の三ッ斗と同じを置き、中央間にはそれが二つ置いてある。この點は柳津の奥之院と同様である。正面の中央間は蔀格子戸、兩側は板戸で、中央間の様に取りはづしが出來る様になつて居る。他の三面は板壁で、向つて左の面の第二間に板の引戸がついて居る。
 堂の中央、鏡天井の下に大きな須彌壇が、どつしり据付けられて居るのは氣持ちのいいものである。この須彌壇は室町の末か桃山かと思はれる。逆蓮のついた、よくある型である。この透彫は室町の繊細さを持ちながら、桃山の味が充分に出て居る。しかも多少の破損があるのに、後補がしてないのは何よりもうれしく感じられる。この須彌壇の上には船形肘木を使つた古い厨子があり、この臺は二重になつて居て、上の方のは鎌倉に近い感じを持つて居る。」

 東伏見邦英伯爵が感激された阿弥陀堂の茅葺屋根は、だいたい20年周期で葺き替えが必要になります。近年では、平成9年、平成12年の火事を挟んで平成13年に葺き替えされ、現在の屋根は平成26年のものです。
 なおこの東伏見邦英伯爵は、戦後に出家され、天台宗の京都・青蓮院門跡門主をつとめられた、東伏見慈洽僧正(1910~2014)その人です。