念仏踊り

                                             ©田中印刷

 念仏踊りで有名な時宗の開祖、一遍上人(1239~1289)の生涯を描いた国宝『一遍聖絵』第四には、「念仏踊りとは、空也上人が京都の市屋や四条の辻にて行ぜられたのがそもそもの始まりです」(意訳)と記してあります。

 空也上人が伝えられた鎮魂のための念仏踊りは、上人のご入滅後も、京都やここ八葉寺のみならず、全国に広がりました。しかし八葉寺では、いつの頃からか行われなくなってしまったようです。一説によると、天正17年(1589)の、伊達政宗による会津侵攻前後までは行われていたともいいます。
 時代は下り、大正5年(1916)の夏の祭礼中に、東京神田や横浜の人々による念仏踊りの会であった「空也光勝会」の有志数人が、空也上人ご入滅の地である八葉寺に参拝するということがありました。光勝会は、京都極楽院空也堂の流れを受けた、名古屋養老寺等に在籍する空也僧の一人が、東京に移住した際に結成した会です。これより毎年、祭礼中に八葉寺を訪れ、空也堂御前にて「空也念仏(歓喜踊躍念仏)」を奉納するようになったそうです。

 当時の絵葉書より

●念仏踊りの再興
 八葉寺檀徒と光勝会の交流が進むにつれ、冬木沢の僧俗らの間では、徐々に念仏踊り再興の機運が高まっていきました。その熱意は認められ、ついに大正11年(1922)、光勝会有志から空也念仏踊りの聖典次第・節回し・動作等を伝授されたのです。その系統は、京都極楽院空也堂伝来の「鉢たたき」のものでした。

 そして同年2月20日付けで、八葉寺に「空也光陵会」を正式発足するに至りました。その再興記念の扁額には当時の住職山口元瑩(別当金剛寺35世)以下、八葉寺の檀徒17名が名を連ねております(この扁額の日付は大正10年9月ですが、上人の950年忌に合わせたためと思われます)。会の名前は、この八葉寺の山号が「諸陵山」で、「陵」が墓地をあらわす語であったからかと思われます。

●関東大震災の奇禍
 ところが翌大正12年(1923)9月1日、不運にも関東大震災によって「空也光勝会」が壊滅的な打撃を受け、東京での法灯が途絶えてしまいました。この悲劇の結果、あまりにも運命的ですが、空也念仏踊りは冬木沢の「空也光陵会」が受け継ぐこととなりました。歴代の導師(念仏踊りにおいて職衆を率いる、空也上人の役)は、山口元瑩がはじめに法師をつとめた後に村内に引き継がれ、八葉寺地区の檀家の中から選ばれるようになり、現在、十数代目まで継承されています。また導師以下、職衆も含め、念仏踊りをつとめた者は全員、「空也光勝会」の先例にならって、別当金剛寺住職より「阿号」が授けられています。

●空也光陵会(くうやこうりょうかい)
 現在の空也念仏踊りは、祭礼期間中の毎年8月5日午前10時から、開山空也上人堂の御前で、空也上人をはじめ八葉寺に集う祖霊の供養のために奉納されています。構成員は基本的に9名で、導師が1名、職衆(しきしゅう)が8名(金瓢箪1名、銀瓢箪1名、金太鼓1名、銀太鼓1名、鉦4名)となりますが、増減する時は鉦の人数で調整します。職衆が8名であるのは、空也上人がある時、市中で念仏踊りを唱導されていたところ、布教の助力のために過去七仏(お釈迦様とその前世6代)のすがたが影現したという故事に由来し、そこに弟子定盛(貞盛)を足した数が8であるからです。また空也上人(導師)と8名の職衆による、計9人による念仏踊りは、九品の浄土をあらわすともいわれます。

 空也念仏踊りは、前出の京都・名古屋等の各寺院(全て天台宗)に同系統の念仏踊りが現存しており、それらの寺院では、全て同じ中京地帯の空也僧によって念仏踊りが勤修されています。一方で冬木沢の空也念仏踊りは高く評価され、数々の受賞を果たしてきました。昭和47年(1972)には県指定重要無形民俗文化財に指定され、近年でも平成19年(2007)に地域伝統文化功労者として表彰されています。このように「空也光陵会」は、近代以降の冬木沢詣りの一端を担いながら、その法灯を今に継承しています。  
 なお冬木沢の空也念仏踊りの詳細(次第・歌詞の内容訳注・動きの解説)については、八葉寺より公式発行の『冬木沢詣りガイドブック』に掲載されています。より深く知りたい方はご覧ください。