空也上人略伝

 空也上人(903~972)は、日本で初めて称名念仏(しょうみょうねんぶつ。「南無阿弥陀仏」とおとなえすること)を実践なされた高僧として広く知られています。なにぶん千年以上も昔のことなので、詳細は霧の中なのですが、日本全国を行脚され、身分の上下に関係なく救いの手を差し伸べられたことは確かですので、今なお多くの人々に尊敬され続けています。

『空也上人絵詞伝』より

●ご生誕から修行時代
 寺伝によれば、上人は延喜三年(903)に醍醐天皇の第二皇子としてご生誕されました。その時、右手の中に小さな阿弥陀さまの仏像を握られていたり、その後も夜泣きの声が「あみだあみだ」と聞こえるなど、尋常ならざることが続いたそうです。これを不吉と思われたからか、上人は鞍馬(京都盆地の北側)の山中に捨てられてしまいました。しかし不思議なことに、上人は鞍馬の山中で、親代わりの鹿や猿などに育てられ、立派に成長されました(これにあやかり、以前は八葉寺の空也堂に、我が子の健やかな成長を願って、鹿・猿と上人の絵を奉納する風習もありました)。上人は成長されるにつけ、各地で人助けをされながら、徐々にほとけの教えに帰依なされていきました。
 やがて深く仏道を志すようになった上人は、20代のころに尾張の国分寺でご出家なされ、以来「空也」と名乗られました。そこでまず三論宗(「空(くう)」について研究する学派)の修学に励まれましたが、もっと庶民の救いとなるべき教えを学ばれようと、国分寺には長く留まらず、播磨国揖保郡の峯合寺に居を移され、そこで数年かけて一切経(全てのお経。五千巻以上)を読解なされたのです。上人はこれを機に、ご自身の救済活動の理念、すなわち念仏行への確信を固められました。

●八葉寺の開創
 その後は四国や奥州など各地を行脚し、京で庶民に念仏を広められました。京での名声は高まる一方でしたが、もとより民衆の救済を第一に考え、名利を嫌う上人ですので、京での布教は俗弟子・定盛に託し、平将門の乱で中断していた奥州巡錫に再び旅立たれたのです(牛に乗られてという伝もあります)。そしてはるか北方に紫雲がたなびくのを見られ、その地を目指されたところ、ついに会津冬木沢に至られました。
 上人は冬木沢の地に特に強く霊気を感じられたため、そこに堂宇を建立され、背負ってこられた金銅の阿弥陀三尊さまを本尊として安置(現在は秘仏)されたのです。さらに、一つは浄水不足で悩む住民のため、一つは阿弥陀さまにお供えする水を得るため、独鈷杵でこの地を突き掘られたところ、たちまちに良質の泉が湧きました(現在の空也清水)。そしてこの湧き水がたまった池から八葉の白蓮が生じたので、建立された寺を八葉寺と名付けられたのです。時に康保元年(964)のことでした。
 以来、上人は往生なされるまで、会津の野辺であるこの冬木沢の地において、うちすてられた遺骸を集めてねんごろに供養し続けられたのです。時には周辺にも足をのばされ、牛沢村西の田沢川に無明橋を架けられるなど、各地で民衆のために活躍されました。その偉業がいかに民衆に歓迎されたかは、河沼郡牛沢村やその村西の花立山、同青津の立川、八葉寺近くの空也原などで、上人に関する逸話が地名の由来となっていることからも窺えます。

  八葉寺で往生なされる空也上人
(『空也上人絵詞伝』より)

 そして天禄3年(972)9月11日、この会津の八葉寺で上人は極楽往生なされました。御歳70でした。臨終のときは、浄衣に着がえられ、香炉を持ち、西を向かれて正座されたまま、閉眼なされたそうです。その瞬間、阿弥陀さまをはじめとするたくさんの聖衆がご来迎され、妙なる音楽が天に響き、美しい花が降りそそぎ、素晴らしい香りで周囲が満たされたといいます。
 そのなきがらは遺言によって、上人が生前、父である醍醐天皇の追善のために建立された石塔(「祖陵」と称される、現在の奥之院周辺)のあたりに葬られたと伝えられています。

 以来八葉寺は、空也上人のご意思を継ぐ人々によって連綿と受け継がれてきました。現在でも、空也上人のご命日である9月11日になると、境内でしめやかに供養がとり行われています。